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吾 唯 足 知

はじめに

令和二年師走、背中を追い続けてきた親父(オヤジ)が永眠した。
感謝の気持ちを私目線で恥ずかしながら文章にしてみたい。
 
尚、勝手ながら「吾唯足知(ワレタダタルヲシル)」を文のタイトルとした。
三十代中頃に「足るを知る」と云う言葉に出会った。座右の銘とでもいえば良いのか、
以降は脳裏からずっと離れず、生きる上で大切にして来た言葉だからそうしたい。
 
それでは何かに押される気持ちで慣れないパソコンに向かおう。
文章はただ思い出すままに記して行く。表題は無い、というか考えるのが面倒だ。
敢えて内容を説明するならなら下記の様な事例のものになると想像している。
 
  親父のこと   親方を追って   姉と弟     民藝との出会い
 
  お袋の人生   幼い頃から    手帳の記憶   住職との会話
 
  HSGに付いて   木香家とは    うさと・と   乃村工藝社で      
 
  叔父叔母と   ものを観ること    木と共に    日本を離れて
 
記憶が頼りなので多少の間違いはあると思うが勘弁していただきたい。
自叙伝みたいなものになってしまうかもしれない。進めてみないと私にも分からない。

                       令和三年一月七日  石塚典男    


では、綴ってみる。まずは「親父と親父の親方のこと」から

 
■1

 
親父、石塚光雄は、昭和8年6月20日、父・福次、母・アサの三男として現在の栃木市にて生を受ける。
 
親父の兄弟で長男の敏雄はフィリピン沖で戦死、靖国に祀られている。次男の千代治は予科練に志願兵
として出兵していたが、終戦後に撤兵された。
千代治が無事に戻り後継ぎができた。まもなく東京に出た親父は、やがて生涯の親方となる石井五郎松氏
が営む木工所に見習いとして雇われました。
 
木工場の屋根裏部屋にて何名かの先輩職人と共に賄い付きの修行生活が始まります。
奉公はじめの主な仕事は親方の身の回りのお世話と自転車によるリヤカー引きだったそうです。
 
しばらくしてから自転車は自動二輪に変わったそうですが、時に自転車を押しても上がれない重荷や坂道は
見知らぬ見習いさん達と協力仕合いながら越えたと話していました。三年後の年季奉公が明けるまで
自転車のリヤカー引きは続いたそうです。
 

◇   ◇   ◇

 
小学生だった私も、まだ住み込みの職人さん達が暮らしているその屋根裏部屋を親父に梯子を掛けてもらい
見せてもらったことがあります。
 
切妻屋根の低い天井側に布団がたたんで置かれており、写真などが貼られた狭くオープンな空間でしたが、
何故か親父のニオイが残っていると感じました。
 
近年になって叔母(親父の8歳上の姉マサ)が話してくれました。
見習い間もない頃の弟(光雄)を訪ねて父親の福次と一緒に行ったことがあったそうです。
マサに呼ばれて二人だけで話をはじめると、親父は泣いてばかりでまともに会話ができなかったそうです。
 
よほど不憫に感じたのでしょうか、
その後も親父が亡くなるまで二人の姉弟愛は生涯変わることはなかったと感じています。

令和三年の今日、96歳になられる8歳上の叔母はありがたいことにご健在です。
 


平成30年12月27日 親父と姉マサ

 

■2


東京港区芝の周辺は横浜とならび洋家具の発祥地。同地区の飯倉にあった石井親方の木工所(春工社)は
主に洋家具の製作を請け負っていました。

木工でも職種はいろいろですが、親父が修行した春工社は椅子の生地加工が得意だったようです。
石井親方や先輩職人は少ない機械も優先的に使用できるが、下っ端の職人は手道具による手加工のスピードが求められ、
早く一人前と認めてもらえるように競って働いたと話していました。

親父からは新橋周辺やマッカーサー通りの計画のこと、
坂道だらけで日暮れには怖くて物騒な六本木周辺の思い出話は何度も聞かされました。

大きな基礎土台から斜めに鉄骨が延びていく様子に驚き建築現場に職人姿で侵入。
やがて電波塔は完成した。東京タワー建設物語は親父の十八番でした。

当時の休日といえばは毎月1日と15日の二日間だけだったと言っていました。
ただ、「盆と正月に休暇を出せないようでは親方の恥」と言われた時代でもあったそうですが、
親父はしばらく帰郷しなかったそうです。
時折いけた映画は立ち見でも唯一の娯楽だったそうです。

「特に木工の仕事が好きな訳では無かったが必死で働いた」「才能があった訳でもない」
「食べて行くためにはひたすら働くしかなかった」と話してくれたこともありました。

見習い三年で年季奉公が明け、お祝いに人生初めての背広一式を石井親方があつらえてくれたそうです。
その背広を着て里帰りするための汽車賃も頂けたと聞く。

よほど嬉しい出来事だったのだと思う。独立後に設立する富士室内工芸株式会社では徒弟制度などとっくに無くなった
現在でも「年明け(ねんあけ)」と表するお祝いが伝統行事として、木工手始め三年を経験した者を囲んで継承されている。


石井親方の元で修行を始めた頃の一枚
左から親父(17)  姉マサの長女/孝子 (2)  マサ (25)  妹/貞子 (13)
 
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親父はカメラ好きでしたが自身が写って残っているものは少ない。
上の写真は令和元年12月に約三ヶ月間入院後、自宅に戻れた辺りから、部屋のベット脇に置かれていました。
裏には昭和25年7月7日と記されています。撮影場所は江ノ島と聞いています。
私と一緒に親父の最期を見守った写真です。   
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■3

昭和34年、親父は母(美代子)と結婚。
埼玉県新座市から春工社通勤は続いていたが、数年後に石井親方の元を離れて独立します。
当初は石塚木工を名乗っていたと思う。

昭和45年2月12日に東京都板橋区宮本町に法人「富士室内工芸株式会社」を設立創業。
住宅兼工房で開かれたお祝いの席には、石井親方夫妻をはじめ、親族が出席。
母の料理に加えて、親族が持ち寄った料理を囲んで嬉しそうな親父を今でも良く覚えています。

宮本町周辺の人達も地方出身者が多かった。高度成長期にあったかも知れないが、オイルショックも経験した。
何時しか通いや住み込みの職人たちも増えていった。小学生の私と弟を職人さん達が良く面倒を見てくれました。

木工場での食事は住み込み職人と家族が一緒に母の手料理でした。
残業時の夕飯は大皿に盛られたおかずを職人達と競って食べました。
食事の支度が出来ると親父を囲んで皆が席に着く、山盛りのおかずは見る見るうちに消えて行きます。
食べるのが遅い私たち兄弟は少しだけ早めに箸をつけることが許されていた時期もあります。

ごはんや味噌汁は同じ釜や鍋から分ける。ごはんは何時も多めに炊かれる、釜の飯が底をつくのを
親父はすごく嫌っていました。私たち兄弟が個別に盛られたおかずを残しても叱られる事はなかっ
たが自身で注いだごはんを一粒でも残そうものなら、「もう飯はたべるな!」と偉く叱られました。

出された物は何でも食べました。極端に言えば蕁麻疹が起きてもいただきました。
おかげで兄弟共に好き嫌いは無くなっていたと思います。
その頃の経験が元なのでしょうか、私は食べるのが人より早い気がしています。

 

 

■4

板橋区宮本町に工房を新築した頃。周りは長屋や空き地、林が多くありました。
加工で出るおが粉や木っ端は空き地で野焼きしました。
おねしょをするからと、子供は火の近くに近づけない話も聞いたが、時々は焼却の番をしました。

職人さんがそっと芋を一緒に入れてくれたりしたので焼き芋が食べられるのが待ち遠しくて
ずっと火から離れずに居たりした晩はおねしょもした(苦笑)
近隣の建設が進み焼却炉が設置されたので、いわゆる火の番は不要となります。

                     ・・・・・・・・

     私は木が燃える音と匂いと炎が好きだ
     薪ストーブの火を見ていると必ず当時の自由でやさしい時間を思い出します

                      ◇  ◇  ◇

私が小学5年で教室の掃除当番だったある日。クラスメイトの男女5〜6人で掃除もそこそこに、
モップや箒で雑巾を投げ合って遊んでいる所を家庭科の女教師に咎められ全員が平手のビンタをうける。
その夕方。学校長とその女教師が体罰を詫びにやって来たのである。

工房2階の玄関から見下ろすと、手拭いで全身の埃を払いつつ「何事か?」と怪訝な様子で見上げている親父の姿。
出来事を話す先生方に「むしろありがたい 気にしないで下さい」と親父は言ってお引取りいただく。
「典男はメシ抜きだ!」と母に告げて親父は作業に戻りました。

その日の私に夕飯の席は用意されませんでした。
夜、親父が風呂に入っている隙に、母が握り飯をくれたので食べたような気もするが、チャンと思い出すことはできない。
生涯、親父に殴られたことはなかった。たぶん誰にも手をあげた事はなかったと思う。

            当時の工房兼住宅
                創業当時の工房兼住宅 
    

                           
 

■5

物心ついた頃から遊び道具といえば身近に有った木材が中心でした。
親父は小学生の私に切り出しナイフ左右を買って与えてくれたが、
鉋や鑿などは中学にあがる迄は工房にある物を大抵勝手に使用していました。

両刃の手鋸は切れるもの程よく刃が割れた。何度も割っては親父に叱られた。
その都度、代替品を購入するお金を親父は職人に渡していた事と思う。

それでも懲りない私は、あの日も職人Nさんの鋸を黙って使用して割ってしまう。
悲しそうな目で割れた刃を触っているNさんの顔を見てからは、こっそり人の
道具に触れることは一切なくなりました。

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あの頃は道具屋?が定期的に来て鋸の目立てをしていました。
ところで親父の手道具は八十歳位まで増え続けました。一例ですが、
反り台や内外丸鉋は依頼の内容で手持ちの物を平気でつぶしてしまう。
親父は要望の変化や初めて仕事を苦にしない常に備える職人だったと思う。
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それから高校卒業まで、欲した道具類は購入する金銭を大抵出してくれたが、
後に話すつもりの最初の就職先でほとんど全てが行方不明になってしまう。

紛失したのは三十年も前だが、中学入学時に親父が一緒に選んで与えてくれた赤樫台の寸六と台直し、
三本の追入れ鑿を時々思い出す。まだ上手く研げなかった鑿達は誰かの役に立っててくれれば嬉しい。

 

■6
 

昭和五十年過ぎ、ある晦日(みそか)の給料日の晩でした。
住み込み職人のKさんと親父の話し声が茶の間から襖越しに聞こえます。
いつもと違う様子なので、思わず聞こえてくる話に耳を傾けていました。

Kさんは、最近オープンした店でボラれたらしく、給料の前借を懇願しています。
実家への仕送りはどうのこうのと話している様子でしたが、
しばし話を聞いた親父は現金を渡し、受け取ったKさんは何処かに出かけて行きました。

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Kさんは自転車を後ろ向きにこいで見せたり、楽しく良く遊んでくれた職人さんです。
仕事は早く正確な方で、少し荒削りな部分も欠点とは思えない魅力的な方でした。
故郷へ戻って木工の仕事を続けますが、近年まで親父宛ての賀状が届いています。
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高校に行き始めた頃、あの晩の出来事が気になって親父に聞いてみました。
「K君は、前借りした分をすぐに仕事で返してみせたよ」と聞き感心。
ただ驚いたのは、Kさんがあの夜向かった先は、そのボラれた店だった事。
そして、以後その店(キャバレー)の常連客となった結末です。

「Kさんや親父の様な人(職人)になりたい!」と憧れました   

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当時から毎月晦日は給料日です。
仕事を終えると母の料理で下戸の親父を囲んで従業員で一杯やります。

日曜祝日が休みになり、現金が入っていた給料袋も振込明細だけに変わり、
数年前から母の料理も仕出しや出来あい中心になってしまいましたが、
毎月末の晦日会は現在も続いています。


 

■7
 

昭和53年4月、新社屋が現在の地(板橋区前野町)に完成。住み込み職人の個室も用意される。
同時に本社住所も移り創業地(宮本町)は住宅兼倉庫になりました。

創業時と同様に、工房内で完成披露の祝賀会が執り行われました。
当日は石井親方や親戚、増えた取引先と従業員、宮本町近隣の方々が列席される。

席上で、社名にある「富士」は親方から頂いた”いきさつ話”を親父が話します。
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 創業時、私は「富士」なので、単に日本一を目標にする会社!?と理解納得していましたが。
石井親方いわく、「戦地で日本を想えば,決まって富士山と母親の姿が出てきた経験」から、
支えになり思い出してもらえる存在になって欲しいので「富士」を社名に入れることを
推挙された。と親父から聞かされました。
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さらに”木工帯鋸盤”は、8年前の創業祝いとして
「石井親方から同じく頂いたものです!」と、親子が本当に嬉しそうに紹介する。
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親父が「富士室内工芸株式会社」を設立して半世紀が過ぎました。
頂いた帯鋸盤は今日も現役で調子よく働いてくれています。
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   石井親方(中央)向かって右に親父・二人の祖父の姿
 

現在の工房は元々は鉄工場。下見で初めて両親とシャッター越しに覗いた内部の
広さには驚きましたが、売り出し価格を聞いて子供心にも不安がつのりました。

まだまだ養育費が掛かる二人の子を抱え、大金を借金する不安は想像しがたいものですが、
ある日、その返済が終わった事を私に告げる親父からは安堵と少しの自信が感じられました。
 
続く

しばらくお待ちください。